鬼滅の刃ー無限列車編(映画)

 爽快感ー★★ プロフェッショナル度(アニメの完成度)ー★★★★ 泣くー★★★★★+ 高揚感ー★★★★★

 ハッピー感ー★ 重い、考えさせられるー★★★ ハマる(影響を受ける)ー★★★★★

 1月に、『鬼滅の刃 無限列車編』を観ました。

一人暮らしとなった初めての秋の夜長、夜っぴてAmazonプライムやネットフリックスで映画やドラマを観ることが多くなり、『鬼滅の刃』のテレビ版(シーズン1、全26話)を観ました。もともとアニメも漫画も好きですし。

『タイガーマスク』、『デビルマン』、『さらば宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』、『ファーストガンダム』、『装甲騎兵ボトムズ』もよかったですねえ

 それはさておき、原作は読んでないので『鬼滅の刃』に触れるのはこれが初めてだったのですが、ハマりました。単純なようで、独特の世界観があります。毎夜、夜ご飯から観始め、とまらなくなり、なんとか2、3話くらいでやっとこさ自分を制御してやめるという状態になり、あっという間にシーズン1が終わりました。そして、しばらくの間心に大きな穴が開き、大きな喪失感を感じました。

 そして、映画を観に行くことにしました。話の続きも気になります。一人暮らしなので、もちろん一人で新百合ヶ丘のイオンシネマで観ました。

 『鬼滅の刃』は、テレビも映画も原作の漫画に忠実です。そしてストーリーは、テレビ~映画~テレビ(シーズン2)と進む展開になっており、テレビと映画のストーリーが被ることもないですし、また、テレビと映画で内容が異なるということもありません。つまり、観始めたら観続けるしかないということですが、面白いので問題ないです。

 映画館はほぼ満員でした。

 映画が終わり、エンディングの曲である『炎』が流れる間、誰一人として席を立ちませんでした。終わりころから、これは、誰も立てないとは思っていましたが、やはり、一人も立ちませんでした。

 マーベルシリーズのような、ポストクレジットがあるわけでもありません。

 『炎』が終わり、静かになったとき、あちこちですすり泣きの声が聞こえました。子供たちもたくさんいましたが、その声もほとんど聞こえませんでした。

 一体、何がそうさせていたのでしょう。

  『鬼滅の刃』の主人公は竈門炭治郎ですが、この映画『鬼滅の刃 無限列車編』の主人公は煉獄杏寿郎です。煉獄は炭治郎たちの先輩剣士の一人であり、炭治郎たちは彼を煉獄さんと呼んでいます。彼は「鬼狩り」の中でも練達の剣士で、常人では到達しえない領域の強さを備えた剣士の一人です。

 煉獄さんは、映画の中の人ではありますが、紛うことなき立派な人です。実際のこの場にいたら、まず間違いなくオーラを纏うでしょう。彼は、幼いころに母親から教えられた人としての「正しい道」と「その道を進む自分(煉獄)の役割」を、「魂」に刻み込んだ『男』です。彼のまっすぐな強い「目」は、そのことを表しています。そして何より素晴らしいのは、彼は、それ以上の「やさしさ」を持っていることなのです。

 「鬼」である魘夢に襲われた列車を、乗客を一人も死なせず守りきった煉獄や炭治郎たちの前に、突然、はるかに強大な敵、猗窩座(あかざ)が出現します。猗窩座の登場には確かに唐突感があるのですが、これは、この映画の後に続く物語の展開で明らかになるようです。ところで猗窩座は、この100年間以上、煉獄のような優れた剣士たちを殺し続けている、絶望的な強さを持つ邪悪な「鬼」です。しかし煉獄は、そんな猗窩座(あかざ)を前に一歩も引きません。微塵も臆することなく対峙します。いかに煉獄と言えど、そんな「鬼」である猗窩座を前にして怖くないはずはないでしょう。と言うより、はっきりと「死」を意識したはずです。しかし、彼は怖れず、傷ついた炭治郎たちを守りながら不利な状況で戦います。煉獄の強さを知った猗窩座は、「お前も鬼になれ」と、甘言を弄しますが、彼は迷うことなくきっぱりと断ります。そもそも、生きる上の信念、そして生きているステージが全く異なるのです。迷う、というレベル感ではなかったのでしょう。煉獄はその信念に裏打ちされたもてる力の全てを出し、猗窩座と戦います。

しかし…底知れぬ力を持つ上、斬られてもすぐに回復できる「鬼」との絶望的な戦いに傷ついていく煉獄。遥かな高次元の戦いを前に、傷ついた炭治郎たちにはなす術はありませんでした。

しかし煉獄は強い。猗窩座に驚異の回復力がなかったら、煉獄は猗窩座に駆っていたかもしれません。煉獄は致命的な傷を負いながら、猗窩座を死の淵に追い込みます。

死を恐れ、なりふり構わず逃げ去る猗窩座。

煉獄に、猗窩座を追う力は残っていませんでした。

 僕は、『鬼滅の刃』の素晴らしさは、「日本人の価値観」をベースに、「人間の美しさ」を謳いあげていることだと思っています。

『鬼滅の刃』がどんな話かといえば、それは鬼と人間の戦いのドラマです。鬼は慈悲の心を持たない邪悪な存在、そして絶望的に強大な存在です。対する人間は、いみじくもこの映画の中で煉獄さんが言う通り、儚く脆く、そして弱い存在です。しかし、だからこそ美しい、だからこそ愛おしい、と彼は言いました。

人は千年以上、この邪悪な鬼に苦しめられています。しかし、大きな犠牲を払いながらも決してあきらめることなく努力を重ね、力を合わせて鬼と戦い続けています(本来なら、世界は鬼に乗っ取られても仕方がありません)。その根底には、日本人の強さ、価値観があります。忍耐、不屈、練磨・研鑽、努力、憐憫、慈愛、寛容、義理人情、不器用さ、自己犠牲…挙げればきりがありませんが、それらのものが、主人公の竈門炭治郎を通して具現化されているのです。

竈門炭治郎…彼は、見ていて涙が出るほどよくできた少年です。家族を鬼に惨殺されるという悲劇にも自分を見失うことなく、生き残った妹、愛らしい少女の禰豆子を、まさに己を顧みず、全てのものから全力で守ります。彼が人と違うのは、鬼に家族を惨殺されても、「鬼」に私的な憎しみを強く持たない(もちろん、ないことはないですが)点です。「鬼狩り」になったのは、あくまで禰豆子を人間に戻す手がかりを得るのが第一優先です。炭治郎が紡いでいく、何ものにも引き裂けない愛と絆は、全編を通して我々の心に響きます。

要は、そんな日本人の価値観、そして、「人というものの美しさ」を究極に突き詰め、煮詰め、結晶となったのがこの作品です。子供には「明快なストーリー」がわかりやすいですし、何よりそれぞれのキャラが魅力的です。そして大人には、人々の機微の描写や「鬼」と「人間」の関係に関する細かな設定、そしてアニメでは想像以上の映像クオリティで、多くのファンの心を掴んだのだと思います。

もう一つ、登場人物の名前がいいです。日本的ではありながら、実際はこんな名前はそうそうないだろうとも思ってしまう、カッコいい名前で彩られています。猗窩座なんて、素敵ですよね。

この物語には(全部読んでませんが)、「人間」側に、ややこしい悪人は登場しません。あくまでも、「悪」=「鬼」の構図であり、わりきっています。やはり、何事においても、迷いなく突き詰め抜いた作品は強いですね。

この作品は、海外でもとても人気があるようです。

人の心は、どこの国でも同じですから。

May,9,2021

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